入社3年目の春、私は初めて資金繰り表が真っ赤に染まる瞬間を目の当たりにしました。
「佐伯さん、来月の支払いどうなってる?」
当時の上司の声は、今でも耳に残っています。
手元の表を見ると、支払予定額が入金予定額を大きく上回り、会社の口座残高は底をつきそうでした。
けれど、売上は順調。
問題は「支払いサイト」と「手形」という、見えない障壁でした。
あれから15年、経理の現場では大きな変化の波が押し寄せています。
支払いサイトの短縮と手形廃止──。
制度の変更を伝えるニュースはあふれていますが、現場の経理担当者が本当に知りたいのは「明日から何をすべきか」ではないでしょうか。
この記事では、支払いサイト短縮と手形廃止の背景を理解した上で、中小企業の経理担当者として具体的にどう対応すべきかをお伝えします。
制度を知るだけでなく、実際に動けるようになることが目標です。
支払いサイト短縮の背景と現状
なぜ今、支払いサイトが短くなっているのか?
支払いサイト短縮の流れは、突然現れたものではありません。
公正取引委員会と中小企業庁は、長年にわたり、中小企業の資金繰り改善に向けた取り組みを続けてきました。
特に転機となったのは、令和3年(2021年)3月に約1,400の事業者団体に対して行われた要請です。
この要請では「おおむね3年以内(令和6年内)を目途として、可能な限り速やかに手形等のサイトを60日以内とすること」が明記されました。
そして2024年11月1日、ついに下請法の運用が変更され、サイトが60日を超える手形等は「割引困難な手形等」に該当するおそれがあるものとして、行政指導の対象となりました。
これは何を意味するのでしょうか?
簡単に言えば、「支払いを60日以上先に延ばすツケ払いは、もはや認められない」ということです。
業種を問わず、これまで90日や120日のサイトで支払っていた企業は、60日以内に短縮する必要があります。
この動きは、現金払いへの移行推進とセットで進められており、2024年以降、さらに厳格化していくことが予想されます。
中小企業に与えるプレッシャー
「60日以内への短縮」。
一見、下請事業者である中小企業にとってはメリットのある話に思えます。
しかし実際には、中小企業の経理担当者に大きなプレッシャーを与えています。
まず、受け取る側と支払う側の両面で影響があることを理解しておきましょう。
- 受け取る側のメリット:資金回収が早くなり、資金繰りが改善する
- 支払う側のデメリット:支払いサイクルが短くなり、資金繰りが厳しくなる
多くの中小企業は、大企業からの受注と、さらに小さな企業への発注の両方を行っています。
つまり、「受け取る側」と「支払う側」の両方の立場に立たされるのです。
特に厳しい状況に直面するのは、次のようなケースです。
「大企業からの支払いは相変わらず60日超(または手形)なのに、下請先への支払いは60日以内に短縮しなければならない」
この「挟み撃ち」状態は、中小企業の資金繰りを直撃します。
「理想」と「現実」のギャップ:経理担当者の声から
政策立案者の描く「理想」と、現場の「現実」には大きなギャップがあります。
ある中小企業の経理担当者はこう語ります。
「制度変更の意図は理解できます。でも、取引先すべてが一斉に変わるわけではありません。大企業からの入金は相変わらず遅いのに、うちからの支払いだけ早くしなければならない。その差額をどう埋めればいいのでしょうか。」
別の担当者からは、こんな声も聞かれます。
「経営者は『法律だから従うしかない』と言いますが、具体的な対策を考えるのは経理部門。しかもコスト削減圧力は変わらないんです。矛盾していませんか?」
資金繰り表が赤く染まる日常
支払いサイト短縮の影響は、資金繰り表に如実に表れます。
たとえば、これまで90日サイトで支払っていた代金を60日サイトに短縮すると、移行期には1か月分の支払いが増加します。
簡単な例で見てみましょう。
【90日サイトの場合(変更前)】
- 4月分の仕入れ:1,000万円 → 7月末支払い
- 5月分の仕入れ:1,000万円 → 8月末支払い
- 6月分の仕入れ:1,000万円 → 9月末支払い
【60日サイトの場合(変更後)】
- 4月分の仕入れ:1,000万円 → 6月末支払い
- 5月分の仕入れ:1,000万円 → 7月末支払い
- 6月分の仕入れ:1,000万円 → 8月末支払い
6月末には、これまでなかった支払いが発生し、7月末には4月分と5月分の両方を支払うことになります。
この「移行期の二重支払い」は、中小企業の資金繰りに深刻な影響を与えるのです。
手形取引の廃止とその影響
手形文化の終焉──経理担当者としての戸惑い
かつて「企業間決済の王様」と呼ばれた約束手形。
私が経理部に配属された2000年代後半、手形は当たり前の存在でした。
「手形を切る」「手形を落とす」「手形のサイトを延ばす」──これらの言葉は、経理担当者の日常会話に溶け込んでいました。
しかし今、その長い歴史に幕が下ろされようとしています。
政府は2026年に約束手形を利用した支払いを廃止する方針を示しており、企業には大きな戸惑いが広がっています。
経理担当者の多くは、次のような不安を抱えています。
- 「手形に代わる決済手段をどう選べばいいのか」
- 「システム変更のコストをどう捻出するのか」
- 「取引先とどう交渉すればいいのか」
半世紀以上にわたって企業間決済を支えてきた手形文化の終焉は、単なる決済手段の変更ではなく、企業間取引の大きなパラダイムシフトなのです。
代替手段は?約束手形から電子記録債権・即時決済へ
約束手形の廃止に伴い、企業は新たな決済手段への移行を迫られています。
代表的な代替手段は次の通りです。
決済手段 | メリット | デメリット |
---|---|---|
電子記録債権(でんさい) | ・紛失リスクがない ・印紙税が不要 ・分割可能 | ・システム導入コストがかかる ・取引先も導入が必要 |
一括決済方式 | ・支払企業の信用力を活用できる ・早期資金化が可能 | ・金融機関の手数料が高い ・導入コストがかかる |
現金決済(振込) | ・シンプルで明確 ・追加システム不要 | ・支払側の資金負担が大きい |
多くの企業が電子記録債権(でんさい)への移行を進めていますが、ここで注意すべきは「でんさいも支払いサイト短縮の対象」ということです。
つまり、手段を変えるだけでは解決せず、いずれにせよ支払いサイトは60日以内に短縮する必要があります。
廃止によって生じる”目に見えないコスト”
手形廃止の影響は、目に見える財務的な負担だけではありません。
次のような「目に見えないコスト」も発生します。
1. 業務プロセスの再構築コスト
- 経理フローの見直し
- マニュアルの再整備
- 担当者の再教育
2. 取引先との調整コスト
- 支払条件の再交渉
- 契約書の書き換え
- 関係性の再構築
3. 心理的・組織的コスト
- 変化への抵抗感
- 新システムへの不安
- 部門間の軋轢
特に中小企業では、限られた人員で多くの業務を抱えているため、こうした「見えないコスト」が経営を圧迫することがあります。
しかし、この変化を単なる「負担」と捉えるのではなく、業務改善の機会と捉える視点も重要です。
実務への影響と乗り越え方
資金繰りへの具体的な影響とその対策
支払いサイト短縮と手形廃止は、企業の資金繰りに直接的な影響を与えます。
ここでは、具体的な影響とその対策を見ていきましょう。
【資金繰りへの影響】
- 支払いの前倒しによる資金流出の加速
- 移行期の「二重支払い」負担
- 手形に替わる担保・保証の必要性
これらの影響に対して、次のような対策が考えられます。
【具体的な対策】
1. 資金調達手段の多様化
- 当座貸越枠の拡大交渉
- ファクタリングの活用
- 在庫や売掛金を活用したABL(動産・債権担保融資)の検討
2. キャッシュフロー改善策の実施
- 売掛金回収の早期化交渉
- 在庫の適正化
- 不要資産の売却
3. 段階的移行計画の策定
- 取引額の大きい先から順次交渉
- 6ヶ月〜1年の移行期間設定
- 資金計画の月次・週次管理の徹底
特に重要なのは、「今すぐすべてを変える」のではなく、計画的に段階を踏んで移行することです。
資金繰り表を3ヶ月、6ヶ月、1年と複数の期間で作成し、移行による影響を可視化しましょう。
支払い条件交渉のコツと落とし穴
支払いサイト短縮は、取引先との支払い条件交渉を必要とします。
成功する交渉と失敗する交渉には、明確な違いがあります。
【効果的な交渉のコツ】
- 法改正を前面に出す(「お互いに対応せざるを得ない状況」と伝える)
- データで現状を説明する(サイト短縮による具体的な影響額を示す)
- 段階的な改善提案をする(いきなり30日ではなく、まずは90日→75日→60日など)
- Win-Winの関係を提案する(早期支払いによる値引きオプションなど)
【避けるべき落とし穴】
- 感情的な交渉(「うちが困るから何とかして」は逆効果)
- 曖昧な要求(具体的な数字や期限を示さない)
- 準備不足の交渉(相手企業の財務状況や業界動向を調べずに交渉する)
- 担当者レベルでの交渉のみ(必要に応じて経営層の関与を求める)
交渉においては、「こちらの要求」だけでなく「相手にとってのメリット」を必ず用意することが重要です。
例えば、「支払いサイトを30日に短縮する代わりに、3%の早期支払割引を適用する」といった提案は、双方にメリットがあります。
社内外の巻き込み方──「経理が孤立しない」ために
支払いサイト短縮と手形廃止への対応は、経理部門だけの問題ではありません。
社内外の関係者を適切に巻き込むことで、スムーズな移行が可能になります。
【社内の巻き込み方】
- 経営層への影響の可視化(シミュレーションデータの提示)
- 営業部門との連携(取引条件交渉の際の同席依頼)
- 購買部門との協力(発注タイミングの調整)
- 全社勉強会の実施(制度変更の背景と影響の共有)
【社外の巻き込み方】
- 取引先への早期アプローチ(「一緒に考えましょう」の姿勢)
- 金融機関との事前相談(資金繰り対策の相談)
- 同業他社との情報交換(業界団体などを通じて)
- 専門家(税理士・公認会計士)の活用
経理担当者が陥りやすいのは「自分一人で解決しようとする」罠です。
制度変更は全社的な課題であると位置づけ、適切に情報共有と協力依頼をしましょう。
上司を説得するための一言テンプレート
上司や経営層を動かすには、影響の大きさを具体的に伝えることが重要です。
次のようなフレーズが効果的です。
「支払いサイト短縮により、半年間で約○○○万円の追加資金が必要になります。この対応が遅れると、最悪の場合、支払い遅延が発生し、取引停止になるリスクがあります。今から計画的に対応することで、このリスクを回避できます。」
数字を示すことで、問題の緊急性と重要性が伝わりやすくなります。
経理担当者として今できること
今こそ求められる”見える化”と”伝える力”
支払いサイト短縮と手形廃止の時代において、経理担当者に求められるのは「数字を管理する力」だけではありません。
「見える化する力」と「伝える力」が、これまで以上に重要になっています。
【見える化するポイント】
- 資金繰りの可視化(日次・週次・月次の多層的な管理)
- 支払条件の棚卸し(取引先ごとの現状整理)
- 制度変更による影響額の算出(移行期のキャッシュフローシミュレーション)
- 社内外のステークホルダーマップ作成(誰を巻き込むべきかの明確化)
【効果的に伝えるポイント】
- ストーリーで語る(「なぜ」から始める説明)
- ビジュアル重視(グラフや図解の活用)
- 結論から先に伝える(PREP法の活用)
- レベル別の説明準備(経営層向け、現場向け、取引先向け)
経理担当者の多くは「数字は伝えたが、行動には結びつかなかった」という経験をしています。
数字よりも「その数字が意味するもの」を伝えることで、周囲の理解と協力を得やすくなります。
会計ソフトや資金管理ツールの活用術
支払いサイト短縮と手形廃止に対応するには、適切なツールの活用も欠かせません。
現在、多くの会計ソフトや資金管理ツールが、この変化に対応する機能を提供しています。
【活用すべき機能と具体的なソフト例】
- 資金繰り予測機能
- 「MFクラウド会計」の資金繰り予測
- 「freee」のキャッシュフロー計算書
- 「弥生会計」の資金繰り表
- 債権・債務管理機能
- 「マネーフォワード クラウド債権債務」
- 「クラウド請求書」の入金消込機能
- 「楽楽精算」の支払管理機能
- 電子決済連携機能
- 「でんさいネット」連携機能
- 銀行APIを活用した自動連携
- 請求書の電子化・自動処理機能
これらのツールを活用する際のポイントは、「データ入力の自動化」と「レポートの活用」です。
手入力に頼っていては、増加する業務量に対応できません。
APIやデータ連携機能を最大限に活用し、効率化を図りましょう。
実録:筆者がやってよかった3つのアクション
私自身、大手メーカーの経理部で支払いサイト短縮に対応した経験があります。
その中で「やってよかった」と感じる具体的なアクションを3つご紹介します。
1. 「支払いカレンダー」の作成と共有
支払日と金額を一目で把握できるカレンダーを作成し、経営層と共有しました。
これにより、資金繰りのボトルネックが視覚的に理解され、対策の優先順位が明確になりました。
2. 「取引先スコアリング」の実施
すべての取引先を「取引額」「交渉の難易度」「関係性」の3軸でスコアリングし、交渉の優先順位を決定しました。
この方法により、効率的に交渉を進められただけでなく、取引の全体像も把握できました。
3. 「シナリオプランニング」の導入
最悪のケース、現実的なケース、理想的なケースの3つのシナリオを作成し、それぞれに対応策を準備しました。
これにより、状況の変化に柔軟に対応できただけでなく、経営層からの信頼も獲得できました。
これらのアクションは特別なスキルや知識がなくても、今すぐ始められるものです。
ぜひ、自社の状況に合わせてアレンジしてみてください。
まとめ
支払いサイト短縮と手形廃止は、単なる「制度の変更」ではなく、企業の資金繰りと取引慣行を根本から変える「生き残りの問題」です。
現場の経理担当者にとっては大きな負担となりますが、この変化をチャンスと捉えることも可能です。
- 短期的には:資金繰り対策と取引条件見直しが急務
- 中期的には:業務プロセスの効率化とデジタル化の推進
- 長期的には:より健全な企業間取引文化の構築
「制度が変わるから対応する」という受け身の姿勢ではなく、「この機会に取引の適正化を図る」という能動的な姿勢で臨むことが重要です。
私自身、経理担当者として資金繰り表と向き合い、時には涙を流した経験があります。
だからこそ言えるのは、「数字の向こうには人がいる」ということ。
支払いサイト短縮と手形廃止の本質は、中小企業の経営者と従業員の生活を守ることにあります。
明日も資金繰り表と向き合うあなたへ。
あなたの努力は、確かに会社を、そして日本の産業を支えています。
一人で抱え込まず、周囲を巻き込みながら、この変化の波を乗り越えていきましょう。